犀の角のように独り歩め
引用:犀の角(『スッタニパータ』) ※NOTHING TO YOU 資料集より
(一部の抜き出し)
三六 交(まじ)わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍(わざわ)いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
三七 朋友・親友に憐(あわ)れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
三八 子や妻に対する愛著(あいじゃく)は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡(あいから)むようなものである。筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。
三九 林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴(おもむ)くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
四○ 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
四一 仲間の中におれば、遊戯と歓楽(かんらく)とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭(いと)いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。
五四 集会を楽しむ人には、暫時の解脱(げだつ)に至るべきことわりもない。太陽の末裔(まつえい)(ブッダ)のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。
六五 諸々の味を貪(むさぼ)ることなく、えり好みすることなく、他人を養うことなく、戸ごとに食を乞(こ)い、家々に心をつなぐことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
七五 今のひとびとは自分の利益のために交(まじ)わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。
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ブッダのことば―スッタニパータ
販売元:岩波書店 |
宗教の多くは、なんらかの組織形態をもっています。
民間信仰やシャーマニズムの類であればその要素は弱いですが、キリスト教や(現在の)仏教は、信仰の場となる教会や寺、信仰を伝える牧師や僧侶などにより組織的な運営がされています。
運営をする以上は当然「経営」が必要になるので、信者からのお布施等が必要になり、お金を集めるためのシステム(檀家制度など)も存在します。
組織という形態をとる以上は、「宗教が商売化していくこと」は避けられないのかもしれません。
宗教が組織であるための理由とはなんでしょうか。
一つ目には、「心のケア」という問題があります。
例えば、自己啓発セミナーや精神病などの集団カウンセリングなどは、他人との交流を利用して精神の回復を図るものです。
宗教の役割として「心のケア」というものがありますが、信仰という絆で結ばれた人間同士の深い心のつながりが精神を向上させるということは非常にありそうに思えます。
ただ、組織による信仰というものがしばしば狂信的な結果を引き起こすことは歴史が証明するところでしょう。人間は他人の態度を見て自分の常識を調節するものですが、それゆえに組織全体が同じ思想を持つということは非常に危険なことと思います。
二つ目には、「教義の維持」という問題があります。
「組織」がなく、それぞれの人まかせの信仰では一つの経典に対して無数の解釈が生まれ、何がもともとの教えか誰にもわからなくなってしまうでしょう。
そこで、経典に対して「正解」の解釈ができる「宗教的権威」が必要となり、その人をトップとした組織構造が必然的にできあがってしまうのです。
初期仏教においては、組織そのものの前提となる人同士の交流や集会などには否定的でした。
人と人が交流すれば、それは良くない結果を引き起こす、と考えられていたのです。
釈尊在世時における僧の生活とは、それぞれ単独で托鉢(物乞い)と修行をし、雨季にだけ集まり釈尊の説法を聞いたということです。釈尊自身もいとこであるアーナンダのみを従え、托鉢の旅を続けていたようです。
もっとも、人との交わりを完全に否定していたわけではありませんが(以下)、組織のような形態は否定したでしょう。
四五 もしも汝(なんじ)が、〈賢明で協同し行儀(ぎょうぎ)正しい明敏(めいびん)な同伴者〉を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。
四七 われらは実に朋友を得る幸(しあわせ)を讃(ほ)め称(たた)える。自分よりも勝(すぐ)れあるいは等(ひと)しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。
五八 学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁(こうまい)・明敏(めいびん)な友と交(まじ)われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。
「犀の角のようにただ独り歩め」には在家者にとっても胸に響くものがあります。それは、心の自立、もしくは自律です。
誰にも養われることなく、誰も養うことのない、そのような生活は、縛られることのない、真の自由と言えるでしょう。他人との関係において、何も利害がないからです。利害こそが人と人を結び、執着を生じさせ、人を縛る要因であると仏教は説きます。
社会生活を営む以上、会社に養われ、部下を養うわけですし、親に養われ、妻子を養うわけですから、初期仏教の求める生活を実現することは不可能です。ここに、論理的に「なぜ出家しなければならないのか」が明かされています。
しかし、少なくとも精神的心持として、「誰にも依存しない」というスタンスが確立できれば、社会生活をする上での多くの悩みは解決するはずです。それを「自立」もしくは「自律」と呼べるのだと思います。
他人(あるいは国、組織)への不満の多くは、「こうしてくれない」「ああしてくれない」という類のものです。他人に求めたり期待したりする気持ち(つまり依存する気持ち)を絶ってしまえば、どのような事態になっても不満は出ないのだと思います。
ただ、個人的には他人との関係において「愛情」や「信頼」というものを切り捨ててしまった人生というものは楽しいのだろうか?と思わないではありません。
ちなみに、なぜ「犀の角のように」なのでしょうか?
実は、哺乳類の中で角が一本なのは犀だけなのです。
脊椎動物の諸器官というものは左右対称の形になるものが基本で、鼻や顎なども発生段階では二つに分かれています。
想像上の動物ではユニコーン(馬に一本角)やアルミラージ(兎に一本角)などがありますが、これらは特殊な能力を備えているとされています。
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コメント
ちょうど今、スッタニパータを読んでいて
「犀の角のように独り歩め」ということばについて調べていたら
ここにたどり着きました。足跡代わりの書き込みです。
犀の角のように独り歩め、いい言葉ですね。
でも実はわたくしは、クリスチャンです(冗談ではなく本当に)。
投稿: 通りすがり | 2009.01.15 01:11